僕、ガンになりました。
父をガンで亡くしているので、自分もガンになるだろうとは思っていたけど34歳は早すぎるきがする。
背骨に腫瘍があり、背骨を溶かしつつ神経を圧迫しているせいで下半身に軽い麻痺も起きている。
自殺も頭の片隅に考えるぐらい夜も眠れないほどの痛みで平常心を保てなかったほど。
緩和ケアの医療スタッフと強力な鎮痛剤を開発してくれた研究者のおかげで穏やかに暮らせている。
妻と結婚してどう控えめに言ってもかわいい息子に恵まれ、病状を知り涙してくれる友人がいる。
社会人とは思えないほど長期休暇を取って広く浅い趣味に没頭し、好きなことを仕事にした。
幸せの価値観は多様性があり人それぞれだけど、僕は自分の人生が幸せだと自信を持って言える。
だから死と直面していても後悔はなく、全て受け入れているので落ち着いている方だと思う。
それでもガンと診断された日は残される家族のことを想い一晩泣いた。
もしも自分の妻や息子がガンになり苦しんでいたら正常を保てないと思う。
自分の苦しみは耐えることができても、自分の大切な人の苦しみというのは耐え難い。
そういう意味で気丈に耐えている妻と母には感心する。
一番の気がかりは当然ながら1歳半になったばかりの息子だ。
父親として教えるべきことが山ほどあるのに、息子に申し訳ないと思う。
学校では集団生活や勉強や理不尽さを学ぶことができるけど、人生で大切なことは僕が教えたかった。
数年前の話なんだけど、狩猟中に山で遭難したことがある。
経験不足と知識不足と体力不足で何もかも不足していたのが原因だ、山を舐めていた。
もともと無い体力をどんどん消耗し太陽も徐々に傾き、とにかく下山しなければと焦っていた。
このときは妻のことだけ考え申し訳ないと思っていた。
荷物を軽くしようと必要のないものを山に捨てた。
所持品の中で重量物のツートップが鉄砲とカメラ、どちらも金属の塊だ。
鉄砲を捨てて助かっても警察沙汰&ニュースになるのは確実、迷いもせず僕はカメラを捨てた。
カメラなんて大量生産品どこでも買える、大切なのは写真であってカメラじゃない。
下山途中に鹿がいたので撃った、若いオスだった。肉なんて持ち帰る余裕なんて無かったのに獲った。
お腹をあけてレバーと心臓と背中のロースだけ剥ぎ取った。鹿の体内はお湯のように熱く感じた。
恐る恐る血を手ですくい飲んでみると驚くほど美味しかった。
折れかけた心が復活してその後無事下山できた。
迷いもなくカメラを捨てたことと、あのときの鹿の命は今でも忘れられない。
ガンと診断されて一番最初に処分しなければと思ったものが鉄砲だ。
あのとき命を繋いでくれた鉄砲がいまでは邪魔になっている。
死ぬのに鉄砲は必要ない、いま必要なのはカメラだ。
ガンと宣告されてから毎日息子のことを撮影している。
僕が死んで何年かたって息子が写真を見たとき
「お父さんは僕のことを愛していたんだ。」と伝わる事を願って撮影している。
いい写真ってなんだろうってずっと考えていたけど、
撮影者の伝えたい気持ちが正しく伝わる写真のことなんだと気付いた。
気付くのが遅いけど、まだシャッターが押せるので間に合わなかったわけではないと思ってる。
ガンになることが運命だったとしたら、写真家という人生もまた運命だったのかもしれない。
僕の気持ちを息子に伝える、そのために写真を撮る人生を選んだのかもしれない。
好きな被写体を好きなように撮る日々に充実を感じていて、
死と直面することで本当に大切なものが見えてくる。
皮肉なものだけど死と直面することで生きていることを実感する。
いい写真ってなんだろうという答えが見つかったら、生きるってなんだろうって疑問が湧いてきた。
せめてこの疑問の答えを見つけてからしっかり死にたいところ。